以前、東京都世田谷区の三軒茶屋にある、墓地の前に建っているマンションの話をしました。そのマンションの裏手の「ある」場所は、僕にとって亡きオヤジとの思い出の場所でもありました。僕を愛してくれたオヤジの話です。

鈴木園芸とオヤジ

先日訪れたマンションの裏手、歩いて2,3分の国道246号線沿いに、蘭や植木を扱っている「鈴木園芸」というお店がありました。

オヤジは、生前個人タクシーの運転手をしていました。ローカルな話になりますが、個人タクシーの営業所が東京都世田谷区弦巻という場所にありました。営業所へは、車の点検や洗車、営業報告などで月に数回出向いていたのだと思います。僕は小さい頃、オヤジのタクシーに乗せられ、営業所に一緒に行ったのをよく覚えています。

オヤジの趣味は「蘭」でした。僕が子供のころは、自宅の敷地の片隅に温室を建て、夜中も煌々と紫のライトを照らして、いくつもの蘭を育てていました。

個人タクシー弦巻営業所から環状7号線をパスして、世田谷郵便局の交差点を右折、国道246号線を二子玉川方面に車を走らせてすぐ、246沿いに「鈴木園芸」はありました。

オヤジは、営業所の帰りにいつも鈴木園芸に寄って、店主と話したり、蘭を物色したりしていました。まだ物心ついたばかりの小さな僕は、店内の台の上においてある蘭が、ちょうど僕の頭の高さくらいまで所狭しと並んでいる店内を歩いても、子供心にわけがわからず、本当につまらなかったものです。

「鈴木園芸というお店がありました」と言いましたが、「鈴木園芸」は、正確には今も存在していました。

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僕はびっくりしました。先日現地を訪問した際、今もその地に建て替えられて店構えは新しくなっていましたが、確かに「鈴木園芸」はあったのです。オヤジは僕が産まれる以前からこのお店に通っていたので、もう50年も60年も前から存在していることになります。代々お店を引き継いで営業されているのでしょう。

僕には父親が2人います。僕の本当の父は今も生きていますが、僕は産まれてから一度も、父と一緒に暮らしたことがありません。代わりに、一緒に住んで僕を育ててくれたのは、「鈴木園芸」に通っていたオヤジでした。

数十年前、僕を産んだ日に母親が死にました。そののち、父の兄弟9人が集まって、僕をどうやって育てるか話し合ったそうです。産まれたばかりの赤ん坊の僕を、父親が働きながら育てるのは無理だから、「一時的に施設に預けよう」という話になった時に、その場にいた父の姉の夫であるオヤジが「施設なんかに預けるなら、うちに連れてこい」と、すごい剣幕でその場にいた親戚一同を怒鳴りつけたという話を、僕が大きくなってから聞きました。

こうして僕は、産まれてすぐに父の姉夫婦に預けられることになりました。

しかし、その後、僕は、大きくなっても父が住んでいる埼玉県の家に帰ることはありませんでした。東京の、父の姉夫婦が住んでいる場所、オヤジの元に、結婚するまで居候することになります。

オヤジは、絵に描いたような大正生まれの江戸っ子でした。

僕が子供のころ、親戚が、埼玉県川越市の、とある老舗の酒蔵にお酒を買いに行き、容器が素敵だからという理由で購入しようとした所、「お酒は味が分かる人にしか売らない!」と断られたと後で聞いたオヤジは、「バカヤロー、ふざけやがって!」とか何とか叫びながら、はるばる川越まで車を飛ばし殴りこみにいきました。子供心に、どうなるんだろうとドキドキしたのを覚えています。

オヤジは、赤ちゃんの僕の笑顔を見るたびに、かわいくて仕方がなかったことだろうと思います。仕事から帰って僕を風呂に入れるのを楽しみにしていたと、すでに亡くなった育てのオカンからよく聞いていました。

そんなきっとケラケラ笑っていた赤ちゃんの僕は、中学、高校、20代と青年になるにつれ、ほとんどオヤジと口を利かなくなっていきました。自分から話すことも嫌だったし、話しかけられることも、何か聞かれることも、顔を見られることも嫌だったからです。

だから時間をわざとずらして、1人でご飯を食べていました。こちらが時間をずらしているのに、たまたまオヤジと一緒になると、一緒に食べたくないんだよ、という態度をあからさまに出し、「俺、あとで食うわ」と言って自分の部屋に閉じこもったものでした。最初のころオヤジは「だいすけ!ごはんだぞ!」と、僕を1階の台所から大声で呼んだものでしたが、それでも行かない僕にオヤジは諦めたのでしょう、だんだん何も言わなくなりました。

一緒に外出するのが恥ずかしくて、青年になってからは一緒にどこかに出かけた記憶がありません。照れとかではなく、本当に疎ましかったのです。自分が一番不幸だと思っていました。

産まれてから育て手がいない人様の息子を手塩に育てたにもかかわらず、自分から気持ちが離れていく、オヤジはどんな気持ちでいたでしょうか。そんな親知らずな僕が、お金を無心する時だけオヤジに顔を向けると、いつだって黙って笑ってうなずいてくれました。その笑顔を生涯忘れることはないでしょう。

口を利かなくなっていく僕に対し、オヤジはそれでも、挨拶だけは必ずさせました。僕が食事を食べ終わった時、朝起きた時、オヤジがタクシーに乗って仕事に出かける時、必ず僕ににじり寄り、「ん!?」とか「ほら!?」とか僕の顔を睨みながら、「おはよう」「いってらっしゃい」と嫌々でも僕に挨拶を無理やりさせるのでした。

そんなおかげで、僕は挨拶を大切にしようと意識できる大人になることができました。誰かと話している最中でも、立て込んでいる時でも、話をさえぎってでも、「おはようございます」「お疲れ様でした」「いってらっしゃい」と先輩後輩関わらず自分から挨拶だけはできるようになりました。幾つになっても一生懸命、人様に頭を下げられる自分。そんな自分の姿勢に、人様は態度を軟化して歩み寄ってくれる事を最近になって気がつきました。

「あいさつの大切さ」。オヤジが僕に残してくれたものの一つです。

そんなオヤジは、僕が就職して営業に配属されたと報告すると、「そうか、営業か。だいすけは、営業する側じゃなくて、営業される側になるような大きい人間にならないとな」と笑顔で言いました。実の子供でもないのに、僕の幸せと成功を心から願ってくれていた人でした。

オヤジは、タクシー運転手を75歳で辞めた後、もともと体を動かさなかった事もあり、一気に体が弱って、まず毎月楽しみにしていた「歩こう会」に参加できなくなりました。

僕が結婚することになり、家族で顔合わせする時、オヤジは古い写真機と一連の道具を持ってきて、お店の中でセットしようとしていたのですが、うまく行かずにお店の中でうろうろしていました。痺れを切らした僕は、「もういいよ、そのカメラじゃ上手くいかないでしょ!ほら、携帯でも撮れるんだから!」と思いやりもなく悪態をついてしまい、それ以来、カメラがオヤジの数少ない好きなものの1つだったにもかかわらず、カメラを持ち歩くのをやめてしまいました。

そのあと、父と会った時に僕は言われました。「だいすけがあんなこと言うから、オヤジさん気にして、『もうカメラはやめたよ』って寂しそうだったんだから。余計なこと言うもんじゃないよ」

今でも少し後悔しています。

オヤジにはもう一つの趣味がありました。

それが「蘭」です。

僕は、2010年4月28日に入籍し結婚しました。

結婚して最初のマンションを同年8月に購入して、「今インテリアで緑に凝ってるんだ」と話すと、早速ランを買ってきてくれました。

でも、蘭はずっと咲きませんでした。

オヤジは、2013年に脳梗塞が原因でなくなりました。84歳でした。

結婚してから亡くなるまで、青年時代には口も利かず、ご飯も一緒に食べなかったことに後悔していた僕は、何度かオヤジを連れて旅行に出かけました。それでも大した恩返しはできませんでしたけど。

その蘭が、オヤジがなくなった翌年、2014年の4月に初めて花を咲かせました。

僕たちの結婚記念日付近の4月下旬に満開になったのです。

オヤジがくれた蘭。今では僕たち夫婦の結婚記念日に合わせるように、毎年4月下旬から5月頭にかけて立派な花を咲かせます。江戸っ子のオヤジが、まさか結婚記念日付近に咲かせる花を狙っていたわけではないと思いますが、毎年、輝かしい僕たち夫婦の歴史にしっかりオヤジの思いとともに咲いてくれます。

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最近調べてみると、「黄金閣」というクンシランの品種らしいことがわかりました。

僕が子供の頃、親父は蘭を温室で育てていたわけですから、東京って今は亜熱帯気候なんですね。一年中ベランダに置いて真冬に雪をかぶったって立派な花を咲かせるんですから。

そういえば、昔、オヤジが蘭を育てていた時。花が咲くと、親父は決まって狭い食卓に2個も3個も蘭を並べました。

なんだよ邪魔くせえなぁ・・・。

綺麗だねの一言だって言ってあげられなかった僕。

花がこんなに美しいものだとわかるのに、何十年もの歳月を必要としました。人間て成長が遅くないですか?

今のマンションのベランダで僕たち家族を見守ってくれている蘭。

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オヤジが死んで時が経ち、家族が増えました。自分が子育てに携わり色々な経験をすればするほど、オヤジとの思い出が鮮明に思いおこされ、自然と涙が溢れ出します。孫の顔を一目でも見せてあげたかった。

いつも墓参りに行くときは、そんな後悔をしながら墓前で手を合わせています。

どれだけ僕は後悔をしているのでしょう。

人間はそんな後悔すら忘れていく生き物だと聞きました。

でも、僕には後悔も涙も、まだまだ残っています。

残してくれた蘭とオヤジとの記憶。挨拶の大切さ。

それとオヤジの最後の言葉も。

オヤジが脳梗塞で寝たきりになり、しゃべれなくなって、亡くなる直前。

オヤジは好きな事にしか反応しなくなりました。

「オヤジ、あの蘭どこで買ってきてくれたの?」

昏睡状態でもこの質問にだけは答えてくれました。

「鈴木園芸・・・」

僕とオヤジが交わした最後の会話でした。

そうだ、もう一つありました。オヤジが残してくれたもの。

愛情は、血のつながりや境遇など関係なく誰にでも無償で注げるもの。

そんなことがわかる人間に、僕を育ててくれたことです。

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