赤い絵

大きな木に宿る2つの命と小さな1つの命。そんな「家族・家庭」を彷彿させるような絵。結婚して長い間子供を授からず不妊治療を続けていた僕ら夫婦が、数年前、吉祥寺のパルコで気に入って購入した絵です。

僕は産まれてから母親の顔を見たことがありません。僕が産まれた、その日に亡くなりました。

父は働き盛りでしたから、育て手がいなくなってしまった僕は、父の姉夫婦に預けられました。以降、産まれてから結婚するまで30年もの間、育てのオヤジと育てのオカンの元に居候することになります。

僕は、中学、高校と多感な青年になるにつれ、オヤジ、オカンとほとんど口を利かなくなりました。食事をする時も居候先の家族とは避け、食卓に誰もいない時間を見計らって一人で食べたりしていました。

オカンの僕を見る目が、大人の色眼鏡を使っているようで嫌でした。「だいすけは誰と仲が良いの?」などと聞かれると、自分の人生を赤の他人から干渉されているようで虫唾が走り、「うるせえな、知らねえよ」と反発ばかりしていました。

成人になって会社勤めをするようになっても、オカンとは、

「今日は夜ごはんいるの?」

「ああ……(ウッセェナもう)」

「どっちよ!?」

「いらないよ!」

「何よ!その言い方」

毎日そんなやりとりくらいしかしませんでした。

戦前生まれのオカンは「戦時中は草でも食べたものよ」が口癖で、料理があまり上手ではなく、だいたいが大味か薄味でした。にもかかわらず、食に関しては少しだけハイカラ(?)で、お米や和食よりもパンや洋食が好き。菓子やケーキなどをたまに作ってくれたものです。

オカンの料理で美味しかったのは、「スパゲッティミートソース」と「苺をたくさん使ったババロア」でした。ミートソースは、前の日から葉っぱやら何だか色々な具材を入れながらグツグツ煮込んで手間暇かけて作っていたので、こだわりがあったのでしょう。

オカンはテレビが好きで、朝から夜中まで1日中つけていました。結構ミーハーで、流行や芸能、スポーツなどにも詳しく、色々なスポーツ選手の特徴などを新しい感覚で覚えるので、そこは僕も飾らず同じ感覚で自然と話すことができたように思えます。

僕は子供の頃からとにかく無類の甘党で、アイスクリームやチョコレートを食べない日が無く、食事が終わると甘いものが無いか冷蔵庫や戸棚を漁るのが日課でした。

 「何もないわよ」

「甘いものない?」と聞くわけでもないのに、そんな僕の後姿を台所から見てオカンは必ず声をかけるのでした。そんなふうに気にかけてもらうことさえ疎ましかった僕は、「・・・うるせえな、いいんだよ!」とか「あっそ」とか素っ気なく返事をするばかりでした。

ですから、オカンはよくアイスやお菓子を買い込んで冷蔵庫や食器棚に入れておいてくれました。「棚にチョコレート入ってるわよ」と言って、僕がほんの少しでも破顔するのがきっと嬉しく、コミュニケーション手段の1つだったのでしょう。

僕は30歳で結婚し、産まれてから居候していたオヤジとオカンの家を初めて出ました。

すぐに1つ目のマンションを購入したものの、2年もしないうちにマンションを買い替え、2度目のマンションに移り住みました。

それがまた絵に描いたような失敗を重ねてしまうのです。

東京都城南地区の人気路線、駅徒歩10分以内で80㎡もあって、それで住環境も住空間も申し分ないマンションなんて僕に手が届くはずはなかったのに、「LDが15畳と広い」、「価格が安い」だけで衝動買い。そもそも、大通りから一歩入った高い建物の狭間の立地で周囲が暗い環境だったのですが、更に2階の一番奥の詰まった抜け感が無く暗い住戸を選んでしまったのです。

2度目のマンションに移り住んで2年が経ったころ。育てのオヤジが亡くなりました。

その後、オカンも体調を壊して十分に生活ができなくなり、一時、うちのマンションに来てもらって一緒に暮らすことになりましたが、妻が快く「うちにいらしてください」と言ってくれたのには本当に救われました。

オカンの部屋を、共用廊下側、僕たち夫婦の主寝室と面した小さな洋室にしました。2度目のマンションは一般的な「田の字型」の中住戸でした。

住戸位置が棟の隅のエレベータホールに近く、更に隣の棟が前面にかぶっている環境だったため、共用廊下側の部屋も暗い環境でした。

おかんは家で毎日、腹膜透析をしていました。柱型が室内に大きく侵食していたおかげで、窓も小さくて室内は更に暗く、部屋も整形な形ではないので、おかんが寝る布団、テレビ、椅子、透析の機器を上手に配置できませんでした。日中は妻に気を遣ってか、あまりLDに出てこないで小さい洋室にこもっている事が多かったので、暗い部屋では気が詰まったことでしょう。

以前のマンションが角部屋で、たまたま全ての部屋が明るかったため、内廊下仕様でもない限り共用廊下側の環境もよく選ばなければならないことを後から勉強しました。

また、玄関出て直ぐ目の前に共用階段があったため、廊下側の部屋にいると、誰かが階段を上り下りする音が聞こえたり、玄関を出ると階段を下りてきた住人とバッタリ目が合うなんていう面倒な思いもしていましたが、歩く練習をしなくてならないオカンにとって、玄関出てすぐの階段でリハビリができる環境は好都合だったのでした。

一緒に住んでいる間、少しだけでしたが、おかんの手を取って階段の上り下りをしながら一緒にリハビリをしました。

キッチンは大理石のきれいな白い天板、ガラス張りのオープンキッチンで気に入っていました。

ただし、あまりオープンだと料理の油がLDのクロスにまでこびりついてしまうので注意が必要です。これも暮らし始めて後で知ったこと。

妻が、食事制限されているオカンに毎日献立を考えてくれていたので、「毎日、違うものを出してくれるからご飯楽しみなのよ」と、よく妻に笑顔で言っていました。

よく考えると僕は、居候の身の30年間、毎日毎日、人様の息子にご飯を作ってくれるオカンに感謝の一つもしたことがなかったのです。

僕たちと一緒に住んでいるうちにと、おかんは、スパゲッティミートソースとババロアを幾度となく妻に教えてくれました。

今でもたまに妻がババロアを作ってくれます。ミートソースもその辺のお店で食べるより美味しくできるようになりました。

今ではほとんど見かけなくなりましたが、LD横の部屋を選ぶ際、洋室ではなく和室を選んで正解でした。

日中はおかんが寝転んだり、くつろぐ空間として活躍したからです。

マンション周辺環境の大切さは更に後になって学ぶことになるのですが、車地獄で喧噪著しい交差点のすぐ、そんな劣悪環境の大通りにマンションはほぼ面していました。

バス停が大通りを渡ったところにあったので、オカンとバスに乗って出かける際、オカンの足では片側3車線道路を渡り切るまでに信号が変わってしまい、妻が車を止めてオカンを渡らせてくれたことが何度かありました。オカンはマイペースなので、車に対しては悪びれるでもなく、妻には「ごめんね大丈夫よ」と言いながら、ニコニコ一生懸命横断歩道を渡っていました。

オカンは、少しの間でしたが、日中は福祉施設に通うことになり、マンションまで送迎バスが来てくれました。

「駅徒歩9分」という字面だけで安心してマンションを購入したわけですが、当時はまだ、「徒歩表記が駅の地上出入り口まで」とかそんな事情も知りませんでした。駅地上の出入り口から改札までの地下通路が異常に長く、9分プラス、ホームまで2、3分ほどかかることを、購入した後実際に歩いて初めて知りました。

更にマンションのエントランスには、少しでも詰まった環境から棟をセットバックするために、長いアプローチが設けられていました。今考えると大した長さではなく、むしろ長いアプローチは高級感すらあってマンションの顔ともいえるものだったのですが、最初は「この長いアプローチのおかげで駅までプラス1分はかかっちゃうよ!」と、僕はよく悪態をついていました。

エントランスへ続く長いアプローチの途中に小さいベンチがありました。マンション前は車を長い時間止めておけない狭い道路だったので、オカンは少しでもバスが来る時間に間に合うように外へ出るのですが、バスは当然交通事情で遅れてきます。そんな時、その一つの小さいベンチがオカンの味方になってくれました。バスが来るまでの間、オカンはそのベンチに腰かけて休んで待っていられることができたからです。

やっぱりマンションの利便性として、安心して人や荷物を乗り降りさせられる車寄せは欲しいですね。それと、「無駄な空間!」が、生活のワンシーンを創ってくれる、かけがえのないスペースになり得ることもわかりました。

そんなこんな、妻が献身的にオカンを支えてくれ、少しでも早く元気になって欲しいと願いながらの毎日でしたが、そんな生活も長続きしませんでした。

オカンは間もなく具合を悪くし、僕らのマンションから出て入退院を転々とすることになるからです。

見舞いに行くたびに、「あんた、見舞いなんか来なくていいのよ、仕事忙しいんでしょ?」と僕の体調ばかりを気にかけているようでした。

亡くなる直前、少し認知が進み意識が朦朧とする中で、病室の一角の何もないところを指して何度も僕に話しかけました。

「ほら、あそこにアイス入っているから」

「…ああ、そうだね、さっき食べたよ」

(ぼけちゃったな)

「……本当に食べたの?」

そう聞き返して来た時は吹き出してしまいました。どんなに呆けても意識がなくても、子供のことを思いやる気持ちは、脳の隅々まで侵食しているものなんですね、親なんて。そんなやり取りがオカンとのほぼ最後の会話だったと思います。

オカンが亡くなるまで、幾度となく妻と見舞いに出向いたのが懐かしい思い出。見舞いの帰りに妻とよく吉祥寺で買い物をしたり休日を楽しむこともありました。吉祥寺のパルコで10万円近いあの赤い大きな絵も衝動買いをしてしまいました。

オカンは6年前の5月に吉祥寺の病院で亡くなりました。

その翌6月に妻が身ごもりました。くしくも母親が僕を産んで死んだ年齢と同じだったので、妻から子供が出てくるまでは心配でなりませんでした。無事に元気な男の子を生んでくれた時は本当にホッとしましたが、妻は「この年で出産すると体力がついていかない」と、息子のこもりで相当体調を崩しました。オカンは55歳から僕を育て始めたので、体中がミシミシと音を立てていたことでしょう。そんなことに気がついたのも、オカンが死んでからです。

息子は5歳になりました。

僕が、「保育園にオカンが送り迎えをしてくれている」と物心がつき始めたのが同じころ。

そのころから僕は、お友達から「だいすけくんのママ、おばあちゃんみたい」と言われるのがとても嫌で、オカンを避けるようになってきたのだと思います。オカンは、既に還暦だったんですよね。

今でもはっきり覚えていることがあります。

保育園の友達の誕生日会に呼ばれ、友達のお宅で遊んでいた時、呼び鈴が鳴り来訪者がありました。玄関が開くとそこにオカンが立っていました。「戸隠(トガクシ新潟県)で買ってきた籠なんですよ」とお誕生日のお祝いとして友達のママに古臭い籠を手渡していたのでした。それが子供心に恥ずかしくて恥ずかしくて。

「カゴ?・・・ダカラオバアチャントカイワレルンダヨ」友達に僕の年老いたオカンを見られるのが嫌で嫌で仕方なかった。

今年も早いもので、もうすぐ半年が経とうとしています。

オカンが亡くなってから早6年。

今年幼稚園の年長になった息子は、すっかり成長して色々なことがわかるようになりました。1つ悩みがあるとすれば、ご飯を全く食べないのにお菓子ばかり食べていること。産まれた時は4,100グラムを越え病院中で驚かれた巨体だったのに、今ではやせっぽっちです。

僕も小さい頃きっと食が細くて甘いものしか食べてこなかったんだろうなぁ・・・などと色々な事が反芻されます。ほとんど遠き日の良い記憶も無くなりつつありますが。

「それ、ちさとのおやつだよ!」

背後から妻の声がしました。

「あっそ?」とそっけなく僕。

妻の静止が無ければ、息子のおやつまで食べようとしていました。

ご飯を食べ終わると、つい食器棚や冷蔵庫を漁って甘いものを探してしまうお腹事情は、昔も今も変わっていないようです。

5月16日

今日は亡きオカンの誕生日。ふといろいろなことが思い出された1日でした。

(僕を育ててくれたオヤジのこと)

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